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やなせたかしと妻の歳の差は?出会いは幼馴染ではなく職場だった

やなせたかしさんと妻の役者さん エンタメ

「やなせたかしさんの妻との歳の差は本当にあるの?二人は幼馴染なの?」――検索でこのような疑問にたどり着いた方は、テレビやSNS、さまざまなメディアで流れる情報が気になっていることでしょう。

この記事では、やなせたかしさんと妻・小松暢(のぶ)さんの正確な年齢差、二人の出会いの実際の経緯、そして「幼馴染」という説が広まった理由や、その真偽について徹底的に解説します。

多くの人が信じてきたエピソードの中に生まれた誤解を正し、信頼できる証言や資料をもとに、二人のリアルな夫婦像をお伝えします。

やなせ夫妻の本当の素顔や、お互いを深く支え合った関係についても詳しく解説しますので、正しい情報を知りたい方はぜひ最後までご覧ください。

やなせたかしと妻の歳の差は?出会いは幼馴染ではなく職場だった

出典元:NHK NHK連続テレビ小説『あんぱん』やなせさんと奥さん役の北村匠海・今田美桜

国民的キャラクター「アンパンマン」の生みの親、やなせたかしさん。彼を生涯にわたって支え続けた妻・小松暢(こまつのぶ)さんとの夫婦の物語は、多くの人々の心を打ちます。

しかし、二人の関係については「歳の差はどのくらい?」「幼馴染だったのでは?」といった疑問や、一部で広がる誤解も少なくありません。

特に、2025年度前期のNHK連続テレビ小説『あんぱん』では、二人がモデルとなることから、その関心は一層高まっています。

このページでは、やなせさんと暢さんの「年齢差」や「幼馴染かどうか」という疑問に、最新の情報や具体的なエピソードを交えながら、分かりやすくお答えします。

ドラマで描かれる物語と、実際の二人が歩んだ道のりの違いを知ることで、その絆の深さをよりリアルに感じていただけるはずです。

やなせたかしと妻・小松暢のプロフィール

やなせたかし(柳瀬 嵩)小松 暢(こまつのぶ)
生年月日1919年(大正8年)2月6日1918年(大正7年)
出身地東京府(育ちは高知県)大阪府
職業漫画家、絵本作家、詩人新聞記者、編集者
備考2013年10月13日、94歳で逝去1993年11月、75歳で逝去

やなせさんは、言わずと知れた日本を代表する漫画家です。一方、妻の暢さんは、やなせさんより1歳年上でした。やなせさんが早生まれのため学年は同じになります。

暢さんは大阪の女学校を卒業後、一度結婚しましたが、夫は戦後まもなく病死。その後、1946年(昭和21年)に高知新聞社が戦後初めて採用した女性記者二人のうちの一人となります。

女学校時代には短距離走の名手として「韋駄天おのぶ」の異名をとった活発な女性で、取材のためならジープに飛び乗って焼け跡を走り回る、土佐弁でいう「はちきん(男勝りの働き者)」な女性として知られていました。

二人の年齢差は?「1歳姉さん女房」の真実

前述の通り、やなせたかしさんと小松暢さんの年齢差はわずか1歳で、妻の暢さんが年上でした。

今でこそ「姉さん女房」は珍しくありませんが、当時としても二人の関係性はごく自然なものでした。やなせさん自身、暢さんの快活でしっかりした人柄に強く惹かれており、年齢差が壁になることはありませんでした。

むしろ、行動的で決断力のある暢さんが、慎重な性格のやなせさんをリードしていく、理想的なパートナーだったと言えるでしょう。

幼馴染説の真相:「幼馴染」ではなく「職場の同僚」でした

「やなせさん夫妻は幼馴染だった」という話を耳にしたことがある方も多いかもしれませんが、これは事実ではありません

二人の出会いは、戦後の1946年、暢さんが記者として勤めていた高知新聞社に、復員してきたやなせさんが入社したことがきっかけです。当時創刊された「月刊高知」の編集部で、二人は同僚として出会いました。

なぜ幼馴染説が広まったのか?

この誤解が広まった最大の理由は、2025年度前期のNHK連続テレビ小説『あんぱん』の影響です。

このドラマでは、物語をより魅力的に描くための脚色として、二人が「幼馴染(おさななじみ)」という設定になっています。

フィクションとして描かれたこの設定が、多くの視聴者に「実話」として受け取られる可能性があり、誤解が広まる一因となっています。

しかし、やなせさん自身の著書やインタビューで、妻が幼馴染であったという記録は一切ありません。

夫婦の馴れ初め:運命の出会いから結婚、そして二人三脚の人生へ

やなせさんと妻、暢(のぶ)さん 出典元;高知新聞

距離を縮めた「運命の東京出張」

二人の関係が深まる決定的な出来事が、東京への出張でした。この時、やなせさんは慣れない土地で食中毒にかかってしまいます。

原因については、屋台の「鯖寿司」にあたったという本人の証言と、闇市の食材で作った「おでん」だったという説がありますが、いずれにせよ、高熱で倒れたやなせさんを暢(のぶ)さんが徹夜で献身的に看病したのです。

この出来事をきっかけに、暢さんの優しさと頼もしさに触れたやなせさんの心は、彼女への愛情で満たされ、二人の仲は急速に接近しました。

愛のために上京、そして三越へ

その後、暢さんは高知新聞社を退社し、先に上京します。彼女を忘れられないやなせさんは、約1年後の1947年、「漫画家になる」という夢を胸に、後を追って上京しました。

しかし、すぐに漫画だけで食べていけるはずもなく、やなせさんは生活のために三越百貨店の宣伝部にグラフィックデザイナーとして就職します。

やなせたかしさんが三越百貨店の宣伝部にグラフィックデザイナーとして就職できた背景には、単なる「運の良さ」や「口添え」だけでなく、彼自身の実力とタイミングも大きく関係しています。

まず、やなせさんは東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)でデザインを専門的に学んでおり、戦後は高知新聞社でもデザイン業務に携わっていました。

上京後、知人のデザイン会社でグラフィックデザイナーとして業務を再開し、広告展に応募したところ3点が入選。そのうち1点は「デパートの部」で受賞し、それがきっかけで百貨店業界への興味や人脈が生まれます

三越百貨店の宣伝部に就職

その後、タイミング良く三越百貨店が宣伝部を拡充するため人材を募集していることを知り、迷わず応募。面接官が偶然やなせさんと同じ高知県出身だったため、郷土意識も後押しとなり、強い推薦を受けて採用につながった―というエピソードも残っています。

このように、専門的な知識や作品実績、そして運も味方したことで、難関といわれる三越の宣伝部に合格できたのです。

加えて、安定した生活や妻を支えるためという「生活のため」の動機も大きな原動力となり、やなせさん自身も「迷ったらまず生活の基盤を固めるべき」と自伝などで語っています

まとめると、やなせたかしさんは専門的な知識と確かな実績、絶好のタイミング、面接官との郷土的つながり、生活への強い意欲など、さまざまな要素が重なったことで三越百貨店に就職できたのです

三越の「華ひらく」のデザイン制作

三越の「華ひらく」のデザイン

ここで彼は、後に日本を代表する包装紙となる三越の「華ひらく」のデザイン制作という歴史的な仕事に携わります。

デザイン自体は画家の猪熊弦一郎氏が担当しましたが、やなせさんはそこに書かれている「mitsukoshi」という流麗な筆記体のロゴを手がけました。やなせさんが描いたこの文字は今も使われ続けており、彼のデザイナーとしての確かな才能を証明しています。

こうして安定した職を得た後、やなせさんは暢さんと結婚。当初は新宿区の「お化けボロアパート」と呼ばれるような場所からのスタートでした。

「なんとかなるわ」 妻・暢の最強のサポート

上京後、そして結婚後も、漫画家としてはなかなか芽が出ない苦しい時代が続きました。

しかし、暢さんはやなせさんの才能を誰よりも信じ、家計を支え続けました。やなせさんが弱音を吐くと、暢さんはいつも快活にこう言って励ましたそうです。

「なんとかなるわ」

この言葉は、先が見えない不安の中にいたやなせさんにとって、何よりの希望の光でした。暢さんの力強い励ましと、三越での安定した収入があったからこそ、やなせさんは諦めずに夢を追い続けることができたのです。

その後、1953年に漫画家としての収入が給料を上回ったことを機に三越を退社し、ついにフリーの漫画家として独立。

新宿区に居を構え、夫婦二人三脚での創作活動が本格的にスタートしたのでした。

最期の5年間が「最も充実した時間」

出典元:女性自身 やなせたかしさんと妻の暢さん。91年に天皇皇后両陛下主催の園遊会に出席

1993年に亡くなる暢さんですが、実は亡くなる数年前に乳がんが見つかり、医師からは「余命3ヶ月」と宣告されていました。しかし、彼女はそこから5年以上も生き抜きました。

やなせさんは後に、「がんがわかってからの5年間が、結婚してから夫婦でいちばん充実した時間だった」と語っています。

それまで仕事一筋だったやなせさんでしたが、暢さんと一緒に過ごす時間を大切にし、二人で授賞式に出席したり、彼女のためにカツ丼を作ったりしたそうです。

最期まで夫の将来を案じ、「もし仕事がなくなったら、私でも色塗りくらいは手伝えるから」とアシスタントに漏らしていたというエピソードは、彼女の深い愛情を物語っています。

まとめ:やなせたかしと妻の歳の差は?出会いは幼馴染ではなく職場

この記事では、やなせたかしさんの妻である小松暢さんとの「実際の歳の差」と「幼馴染説の真偽」について、具体的なエピソードや事実をもとにご紹介しました。

二人の年齢差は1歳で、しかも奥様が年上であったこと、そして出会いは幼少期ではなく、大人になってから職場を通じたものであったという現実が明らかになりました。

幼馴染というイメージが広まった背景には、ドラマなどメディアによる脚色が関係していたことも詳しく解説しました。やなせ夫妻は、世間のイメージやフィクションに左右されず、互いを深く理解し、温かく支えあった素晴らしいパートナーシップを築いていました。

今後も、多くの人に正しい情報が伝わり、やなせたかしさん夫妻の本当の魅力が知れ渡ることを願っています。

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